「標準レンズ」というナゾ

【標準レンズは人間の肉眼に近い?】

 

 私は中学生のころカメラというものにはじめて興味を持って、そして写真部に入部してみたのだが、このとき親に(家庭用カメラも兼ねて)1978年当時発売されたばかりの「ニコンFM」を買ってもらった。

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ニコンの銀塩一眼レフカメラ製品一覧 - Wikipedia

 

このニコンFMには標準レンズとして「ニッコール50mmF1.4」が付属していた。当時はズームレンズが一般化する以前で、たいていの一眼レフカメラは50mmレンズとセットで売られていた。

 

イカ判(35mm判)カメラの標準レンズが焦点距離50mmとされるのは、それが「人間の肉眼に近い」と写真の入門書などに書かれている。これはあくまで画角(対角線画角)の問題だから、撮影画面のサイズによって標準レンズの焦点距離は異なる。

 

つまりデジカメの時代になって、撮像素子サイズの規格が多様化すると、APS-Cサイズ規格の場合33mmが、マイクロフォーサーズ規格の場合25mmが、1型サイズ規格の場合18.5mmが、それぞれ「ライカ判換算50mm相当」の標準レンズと言われている。

 

しかし実は私は兼ねてから、「標準レンズは50mm」ということと、その理由が「人間の肉眼に近いから」ということに対し、釈然としない思いを抱いていた。

 

私は中学時代に写真部に入ったものの、50mmレンズ付きのニコンFMで何を撮って良いのか分からず、中学卒業後はしばらくカメラからも写真からも遠ざかっていたのである。

 

その後、美大東京造形大学)に入学した私は、その機材センターで28mm広角レンズを借りてみたのだが、その使いやすさにあらためておどろいてしまったのである。自分が肉眼で見て「撮ろう」と思った風景が、だいたい28mmの画角に収まるのである。

 

そこであらためて、中学時代に写真を撮れなかったことの一因が、「50mm標準レンズ」にあったことに思い当たったのだ。自分が「撮ろう」と思った風景も、50mmレンズでは画角が狭くて収まりきらず、結果「何を撮って良いのか分からない」になってしまっていたのだ。

 

結局のところ自分の自然な感覚として、50mmレンズは「肉眼に近い」と言うことはまったくなくて、従って標準レンズとはとても言えない特殊レンズだったのである。

 

もちろんそれは当時の私の場合がそうであったに過ぎない。いずれにしろ、どの焦点距離(画角)のレンズを「標準」とするかは人によって、また時代によって異なるはずだ。事実、単焦点レンズを搭載するカメラの画角は、時代を経るごとに50mmより徐々に広角化している。

 

現在もっとも普及している単焦点レンズ搭載カメラのひとつは、「iPhoneの内蔵カメラ」だと言えるが、これは30mm相当のレンズが搭載されており、従って現代の多くの人がこの画角を「標準レンズ」として受け入れているのである。

 

いっぽうの50㎜レンズはというと、現代では標準レンズの座を「標準ズーム」に譲っている。そのかわり50mmレンズはズームレンズより明るく高性能な交換レンズの一カテゴリーとして、進化を遂げている。

 

 

そもそもカメラの標準レンズを考察するに当たって「肉眼に近いから」という理由を持ち出すことがおかしいと言えるのだ。なぜなら写真は四角いフレームに収められているのに対し、肉眼の視界にはそのようなフレームが存在しないのである。

 

人間の視界は中心だけがはっきり見えて、周囲に行くにしたがってぼやけている。というよりも、人間の「見る」という意識は視界の中心にはっきりと集中し、周囲に行くに従って意識そのものが遠のいて行く。従ってどこまでが見えていて、どこからが見えなくなっているのかという視界の境界線を「見る」ことさえ難しいのだ。

 

実は、人はそのように中心しかはっきりしない目を動かしながら、ものを見ている。自分で確認すると分かるが、実は眼を動かさないように一点だけ見つめ続けることは、かなり難しい。一点だけを見つめようとすると、すぐに「見える」という感覚がおぼろげになってイライラし、思わず目が動いてしまうのだ。

 

そのように自覚すると、自分の目は絶えず動いていて、対象物のいろいろな部分を次々と見ているのが分かる。眼が動くと視界も揺れてしまうように思えるが、実際には強力な「ブレ補正」によって人間の眼は実際には絶えず動いているのに視界は安定しているのだ。

 

そこであらためて気付くのは、人間はものを手でなでるように、ものを見ているのではないか?ということだ。人が手でものを触ってそれがどんなものかを確認するとき、必ず手を動かしてものをなでる。

 

だからこそ、それがザラザラしたものか、ツルツルしたものか、柔らかいのか硬いのか、などが分かるのだ。ものに触っても手を動かさなければ、そのような質感を知ることはできないのだ。

 

同じように人間の眼も、絶えず動かすことによって「それが何であるか」を判別し「見る」という機能が実現している。人間は手でものの表面をなでるように、眼を動かして視界をなでて認識している。

 

これに対し、写真は文字通りの静止画であって、人がものを見る仕組みとは根本が異なっている。つまり、写真には肉眼とは異なる「写真の原理」があり、だから「肉眼に近い」という考え自体がナンセンスだと言えるのだ。

 

「写真の原理」を「肉眼の原理」と切り離して考えると、何を標準レンズとするかは実のところ「何をどう撮るか」という写真としてのコンセプトによって異なってくるはずだ。

 

例えば昆虫のクローズアップ撮影の場合、50mmマクロレンズでは被写体に寄りすぎてしまって、100mmクラスのマクロレンズの方が標準レンズとして扱いやすい。また野鳥撮影のプロには「標準レンズは400mm」としている人もいる。

 

そして私は「都会に棲息する昆虫」の姿を記録するため、画角180度の円周魚眼だけで撮った写真集『東京昆虫デジワイド』(アートン新社)を出版したのだが、写真のコンセプトによってはどのように特殊と思われるレンズも「標準レンズ」になるのだ。

 

 

 

また私は「50mmレンズが苦手」という意識を克服して、50mm相当のレンズでモノクロ風景写真も撮るようになった。「50mm標準レンズ」とは一つの方法論であって、それを美味く理解して使えば、自分なりの新たな写真表現か可能になる。

 

もちろん肉眼と写真の原理は異なるとはいえ、全く無関係というものではない。そもそもカメラは眼球を模して作られているのである。それでは写真と人間の視界はどう関係しているのか?それを考えるのはこれまたなかなか難しい。しかしそうやってあらためて考えてみると、不思議なことがいろいろ含まれているのも写真の面白さだと言える。